『ロッキー・ザ・ファイナル』人生を切り拓く名言に溢れた、起死回生の名作

概要

『ロッキー・ザ・ファイナル』は2006年に公開されたボクシング映画。監督と主演はシルヴェスター・スタローンが務めている。
『ロッキー』シリーズの6作目であり、『ロッキー5/最後のドラマ』以来、16年ぶりとなる続編となった。一部設定が『ロッキー5/最後のドラマ』とは異なっている。

あらすじ・ストーリー

老年に差し掛かったロッキーだが、彼は変わらずに地域の名士として人々に愛されれている。しかし、妻のエイドリアンを亡くし、息子とも疎遠になっていたロッキー自身は言い様のない孤独に苛まれ、幸せだった過去に取りつかれた日々を送っていた。
そんな中で、TV番組でかつての自分と世界王者のボクシング対決のシミュレーションが行われているのを観かける。自分自身の中にボクシングへの情熱が沸き上がるのを押さえられなくなったロッキーは家族や体育協会協会の反対を押し切り、再びボクサーとして復帰することに挑戦する。

感想・解説

当初はすでに終わったシリーズの最後の悪あがき程度に思われていた今作。ところが蓋を開けてみるとそこには紛れもなく『ロッキー』の持つ熱狂と感動があった。

街のゴロツキだったロッキーが努力の果てに栄光をつかむ。
第一作目の『ロッキー』はスタローン自身の人生を劇的に変えた作品だった。スタローンもロッキー同様に売れない俳優であり、ポルノ男優なども行いながら糊口をしのいでいた。(ロッキーのリングネーム「イタリアの種馬」はスタローンの出演したポルノ映画のタイトルでもある。)
そんな中、スタローンはテレビでモハメド・アリ対チャック・ウェプナーの試合を観る。チャック・ウェプナーは無名ながらも健闘し、対戦後アリに「二度と対戦したくない」と言わしめた。
この試合に感銘を受けたスタローンは3日で脚本を書きあげる。それが『ロッキー』の基になった。

今作でロッキーにのし掛かるのは人生の重みだ。
撮影時、スタローンは。人生も折り返し地点を超え、未来で得るものよりも過去に無くしたもののほうが多くなる年齢。
ミッドナイト・イン・パリ』でウディ・アレンは「いつだって過去は焦がれるものだ」との台詞を書いているが、今作のロッキーもまた過去に焦がれてこれからの人生とはうまく向き合うことができないでいる。
そんな彼の心に火を付けたのは、他ならぬボクシングだった。テレビでシミュレーションをたまたま観たロッキーは自分のなかにまだボクシングへの情熱がくすぶっていることに気づく。

『ロッキー・ザ・ファイナル』のキャッチコピーは「自分をあきらめない」だ。
『ロッキー』当時の30歳のスタローンと、今作の60歳になろうかというスタローンではその意味がまるで違って聞こえてくる。

年を取るほど失うものも多い。わずかに残ったものまで奪わないでくれ」
この台詞以上に今作のロッキーを表すセリフもないだろう。

若い頃は「何をするのか」という問いはその人の可能性を問いかけるものだ。しかし、老いたときに「何をするのか」はそのまま生き方そのものを問いかける意味へと変わる。
昔、あるミュージシャンのインタビューで読んだ中にこういう言葉があった。

「年を取れば『やりたいこと』と『やれること』 は同じ意味を持つ。」

ロッキーは人生にボクシングを選んだ。そう、ロッキーの純粋さ、不器用さは一作目から何も変わってはいない。

評価・レビュー

92点

個人的には文句のつけようのない作品だ。100点をつけてもいいが、特に『ロッキー』シリーズに思い入れのない人が観ても同様に楽しめるか、と言われれば8点引くくらいの調整が無難だろう。とは言えそれでも充分に満足できる作品だとは思うが。

作品情報・キャスト・スタッフ

2006年製作/103分/アメリカ

監督
シルヴェスター・スタローン

脚本
シルヴェスター・スタローン

主演
シルヴェスター・スタローン
マイロ・ヴィンティミリア
バート・ヤング
トニー・バートン
アントニオ・ターバー

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CINEMA OVERDRIVE

ロックミュージックに欠かせないエフェクター、OVERDRIVE。
それはクリーンな音に歪みを与え、それまでの音楽に新しい可能性をもたらした。
CINEMA OVERDRIVEもまた「個人的な評価」という歪みによって、映画の捉え方・楽しみ方を広げていきたい。